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古井貢酒は、安徽省亳州市産の白酒で、酒精度は60~62度。
古井貢酒は蘭のような香りのする濃香タイプの大曲酒で、適度に飲むと活血、胃腸によく、疲労をとりさるといわれる。
この酒は古井泉の水で造られており、明朝の万暦年間にはじまり、明、清の二代にわたって朝廷へ献上してきたため、古井貢酒と呼ばれている。亳州市は淮北平野を流れる渦河河畔にある古城都市。酒の歴史も古い。
後漢のころ、この街は譙陵と呼ばれていた。曹操(155~220)の生まれ故郷でもあり、九投法を用いて醸造したここの酒に、彼は九醸春酒と名付けている。九投法とは原料を9回投入して発酵させることで、曹操の時代には毫県一帯ではすでに良質の酒を醸していたことがわかる。
曹操が九醸春酒と上書きしたことで、その酒は一躍天下に知れ渡った。
その後、南北朝(420~589)になってから、淮河一帯は両朝がしのぎをけずる主戦場になった。古井貢酒の酒工場は毫県県城の西20kmの減店集にあり、ここの古井はすでに千四百年以上の歴史がある。
『毫県史』によると、南朝粱の武帝簫衍は、中大通四年(532)、元樹の軍勢に命じて、当時、北魏に属していた譙城を攻めさせた。北魏の主将樊子鵠は、独孤将軍の率いる城兵とともによく防戦した。
元樹は城を包囲して長期にわたって攻めたてたが、攻略できないまま兵糧が尽きてしまい、停戦を要求して全軍を南へ撤退させようとした。偽って停戦に応じた樊子鵠は、梁の軍勢が退きはじめると秘かに軍勢をくり出して追撃し、元樹を捕まえて殺してしまった。
死後、元樹は咸陽王に封じられたが、咸が訛って減になり、譙陵は減家店と呼ばれるようになり、さらに減店集と呼び方が変わった。
この戦いのはじめに、魏将独孤は元樹を撃破できないことを恨んで長戟を井戸に投げ入れた。その後、減家店の有志が独孤将軍廟を建て、その周囲の20か所に井戸を掘った。井戸は24か所という説もあるが、今は4つ残っているだけで、その1つが古井貢酒の醸造用水になっている。
この地方の水は塩分が強く、味も苦くて渋いが、この井戸の水だけが清冽で甘美なため、ここ一千年来の醸造に使われ、濃郁な香りとまろやかな酒が生まれるので天下の名水と称えられている。
減店集はその頃から醸造に最適な地方として知られており、その酒を減酒と呼んでいた。この地方の言い伝えに「胡芹と減酒の宴に上客」というのがある。胡芹は減店の北西約35kmに位置する河南省の胡襄城特産の芹菜のこと。この芹菜は株が大きく肥えていて疵がないといわれている。つまりこの言い伝えは、佳肴と美酒と上客ということである。
近年、古井付近を発掘したところ、醸造工場の遺跡が出土し、醸造の歴史の古いことが証明された。その調査資料の説明には、明朝の万暦年間に宮廷へ減酒を献上してから一気に減店集の酒の人気があがり、大小の酒屋が数十軒もできて安徽省、河南省、山東省にまで販路が広がったとある。
酒屋で一番有名だったのが、九代も続いた懐家が経営する公興糟房である。最高の酒質と最大の生産量を誇っていた。20世紀に入ってからは、政府の搾取により相次いで酒房が倒産、古井貢酒が絶えた時期もあった。
しかし、1958年、中国政府が投資して工場を建て、古井貢酒を復活させてからは発展を続けている。現在の工場の一部は公興糟房の跡地である。古井貢酒は精選された高粱を原料に、小麦と大麦とえんどうの麹を使って造られるが、昔からの方法と新しい技術をうまく使い分け、独特の風格を全国名酒をつくりあげている。
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